被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト


フェートン号事件から200年

 フェートン号事件をご存じですか?

 まず当時の世界状況ですが、1793年にオランダはフランスに占領されました。
 そのためオランダ統領ウィレム5世はイギリスに亡命。
 世界各地にあったオランダの植民地はすべて革命フランスの影響下に置かれることとなった。
 イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていた。

 次は日本の状況です。  
 御存じの様にその頃、江戸幕府はオランダとだけ通商を結んでいました。
 上記の国際情勢により、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地と言う事になります。
 ですが、ここからが複雑です。
 アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていました。
 幕府はその事を、詳しく把握していたとは思われません。
 
 こう言った状況下で事件は発生しました。
 文化5年8月15日(1808年10月4日)、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。
 これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名は慣例に従い、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拿捕され、船に連行された。
 それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索を行い、人質の1人ホウゼマンを派遣して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求した。

 長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にフェートン号の焼き討ち、もしくは抑留を命じ、大村藩などにも派兵を促した。
 オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、戦闘回避を勧めたが、ここに来て長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて守備兵をわずか150名程度に減らしていたことが判明する。
 翌16日、イギリス船がオランダ人1名を釈放して、欠乏食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。
 襲撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を入れ、食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送った。
 このためイギリス船は残りのオランダ人も釈放し、翌17日に港外に去った。

 フェートン号事件
 フェートン号事件から200年

 その後、長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹。
 勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹。
 さらに江戸幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じました。
 
 鍋島藩は大失態です。
 この事件を切欠に10代藩主鍋島直正は、積極的な藩政改革や西洋技術の摂取に務めます。
 特に西洋技術の摂取は貪欲はほど積極的で、その結果多くの成果を上げました。
 嘉永2年(1849年)に日本最初の製鉄所を完成させる。
 嘉永4年(1852年)には反射炉を稼動させる。
 文久3年(1863年)に日本最初の蒸気船「凌風丸」を進水させる。
 慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させる。

 鍋島直正
 フェートン号事件から200年

 この結果、幕末の雄藩として「薩長土肥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)」と呼ばれる事になります。
 因みに、鍋島藩は佐賀藩、肥前藩とも呼ばれます。


◎佐賀新聞(2008/03/29)
 フェートン号事件から200年 武雄で企画展

 武雄市図書館・歴史資料館の企画展「フェートン号事件と武雄」が、29日から同館で開かれる。鎖国体制下の江戸後期、長崎港にイギリス軍艦が侵入したフェートン号事件から、今年でちょうど200年。警備怠慢として受けた処分をばねに飛躍を遂げた佐賀藩の中で、砲術研究などの先導役を務めた武雄領の動きに焦点を当てる。5月5日まで。

 事件は1808年初秋に起きた。通商が許されていたオランダ船を装った軍艦が入港。「来航シーズンが過ぎた」と警備を緩めていた佐賀藩は出動できず、藩士数人が切腹し、9代藩主鍋島斉直は謹慎処分に。佐賀城下では商業活動なども停止された。事件で受けた屈辱を晴らそうと、10代藩主鍋島直正は反射炉で鉄製大砲を鋳造するなど飛躍を図る。

 こうした藩の動向の先駆けとなったのが、武雄領主鍋島茂義らの活動であり、企画展は武雄市所蔵の「武雄鍋島家資料」を中心に、貴重な歴史史料約100点を展示する。

 「長崎警備のはじまり」「フェートン号事件おこる」「武雄の領主鍋島茂義」「武雄砲術の展開」「警備体制の充実」「茂義、蒸気船製造主任になる」の6部で構成。佐賀藩が独力で築いた砲台を描いた「神之島図」や、佐賀城下の武雄鍋島家屋敷の公式記録「御日記草書」、武雄領での大砲鋳造研究を示す大砲設計書類など、地元初公開の史料も多い。

 このうち、「フェートン号事件おこる」では「御日記草書」から事件発生当時の記述を紹介。侵入した異国船が当初はロシア船とみられていたことや、事件を受けて武雄神社などで「国家安全、家中安全」の祈願がなされたことなどを示している。

 「武雄の領主鍋島茂義」や「武雄砲術の展開」では、藩主直正の義兄で、藩政をつかさどる請役(うけやく)を務めた鍋島茂義の足跡に注目し、西洋の物品を購入した記録「長崎方控」や砲術研究関連資料を展示。いち早く西洋の科学を研究して先駆けとなった武雄領の功績をたどり、藩が取り組んだ数々の大プロジェクトで大きな役割を担っていたことを顕彰している。

【写真】幕末期の佐賀藩や武雄領の動向を示す史料が並ぶ会場?武雄市図書館・歴史資料館
フェートン号事件から200年



同じカテゴリー(佐賀県)の記事
佐賀でも広がるiPad
佐賀でも広がるiPad(2010-12-26 16:08)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

写真一覧をみる

削除
フェートン号事件から200年
    コメント(0)