倭城(わじょう)は文禄・慶長の役に際して日本軍が朝鮮半島南部各地に築いた日本式の城です。
当時日本は約100年間に及んだ
戦国時代が終わりを告げたばかり、その間に守りの要である築城技術は最高レベルに達していたと思われる。
そのため朝鮮半島にあった城より防御力が高く、実戦的であることに特徴があります。
特に石垣の技術は、江戸時代になっても進歩を続けてきました。
あの微妙なカーブによって、力を分散させる工法は素晴らしい物です。
それを当時は高度な測量技術や大型機械も無しに、人力で施工したのですから頭が下がります。
現在でも普通の土木工事で「野面積み」や「雑石積み」等の工法に受け継がれていて、優秀な「石工」は現場では一目置かれる存在なのです。
その倭城の一つ順天城が日韓の協力で、復元が完了しました。
素晴らしいことです。
この交流が益々進んで、佐賀県の悲願である
名護屋城天守閣の復元が出来れば最高なんですが…。
◎佐賀新聞(2008/03/24)
朝鮮半島「倭城」の石垣本格復元
文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱、1592-98年)で日本側が朝鮮半島に築いた倭城の1つ、順天城(韓国・
順天市)で行われていた石垣の復元工事がこのほど終了した。過去に例がない本格的な復元で、
県立名護屋城博物館(唐津市鎮西町)の学芸課長、高瀬哲郎さん(56)が全面的に指導した。侵略の拠点だった倭城での共同作業を終えた高瀬さんは「日韓が協力し、遺跡を通じて歴史の実態を探るという新たな交流の第一歩になる」と話す。
順天城は慶長の役の1597年、
宇喜多秀家らが築城したとされる。韓国南部沿岸の約30カ所で確認されている倭城のなかでも最大規模で、順天市は観光資源にしようと公園化を計画。事業費は106億ウォン(約11億円)で、昨年1月に工事に取りかかった。
だが、日本の伝統技術を使い、韓国人の手で行う石垣の復元には困難を伴った。綿密な打ち合わせを経て計画書を作成、
名護屋城跡で技術指導も行ったが、昨年2月にメールで送られてきた写真を見た高瀬さんはがく然とした。横向きに並べなければならない石が、不規則に縦や斜めに置かれていた。「当時の築城技術を使って復元するという認識が不足していた」。高瀬さんは積み上げた石をすべて取り壊すよう指示。作業は振り出しに戻った。
約3カ月間の工事の中断を経て、高瀬さんは5月に現地を訪れた。取り壊しについて作業員は難色を示したが、作業のポイントなどを根気強く説明。石選びや積み上げ作業にも参加し、ともに汗を流した。高瀬さんの訪問をきっかけに復元は軌道に乗り始めた。
その後は頻繁にメールをやりとりし、作業の状況を確認しながら修正点を指示。大手門から天守台まで、城全体の石垣復元を終えた。高瀬さんは「共通認識を作り上げるまでが難しかったが、文化財としての重要性を理解してくれた後は、日本人よりも素直に耳を傾けてくれた」と振り返る。
工事の完成が近づいた2月上旬、最終確認のために現地を訪れた高瀬さんに対し、順天市から感謝牌が贈られた。反日感情とも絡む倭城を舞台にした交流の成果に、高瀬さんは「両国の人々が歴史的事実を共有できたことは今後大きな財産になる」と語る。
【写真】復元された順天城の天守台の石垣=韓国・順天市(県立名護屋城博物館提供)
